テレビから流れてきた声を聞いた瞬間、
思考より先に、身体が反応した。
「あ、奇面組だ」と、理屈抜きでわかる。
私にとって『ハイスクール奇面組』とは、
物語を理解して楽しむ作品ではない。
理解する前に、笑わされてしまう作品だった。
だからこそ、2026年版『ハイスクール!奇面組』を初めて見たとき、
胸に浮かんだ感想は、意外なほど静かなものだった。
「丁寧だな」。
それは決して否定ではない。
だが同時に、
あの頃、考える暇もなく叩きつけられていたはずの笑いが、
どこか遠くに行ってしまったような感覚も残った。
この記事では、初代(1985年版)と2026年版の声優・演技を手がかりに、
なぜこの「コレジャナイ感」が生まれるのかを掘り下げていく。
それは、声優の技量の差でも、
世代間ギャップの問題でもない。
笑いに対する思想が、根本から変わったという話だ。
昭和の『奇面組』は、何を笑わせようとしていたのか。
そして令和の『奇面組』は、私たちに何を差し出そうとしているのか。
初代をリアルタイムで知る立場から、
この違和感を、感情ではなく言葉にしてみたい。
『ハイスクール奇面組』は、なぜ「声」で記憶されたのか
昭和ギャグアニメにおける「音圧」という武器
1980年代のギャグアニメにおいて、声は感情表現の補助ではなかった。
声そのものが暴力的な笑いの装置だった。
初代『ハイスクール奇面組』の演技は、今の基準で見れば荒い。
被せ気味の台詞、過剰な声量、間を待たないツッコミ。
しかしそれは「説明不足」ではない。
むしろ意図的に、観客を突き放すための設計だった。
理解する前に笑わせる。
感情移入する前に置いていく。
この乱暴さこそが、昭和ギャグのキレであり、
『奇面組』という作品の核心だった。
声優は「演技者」ではなく「騒音源」だった
初代版の声優たちは、キャラクターの内面を丁寧に掘り下げる存在ではない。
場を破壊し、空気を支配するための存在だった。
一堂零の声は、人格より先に「異物感」を伝える。
冷越豪は、セリフの意味よりテンションで笑わせる。
そこに共感はない。理解も求められていない。
だが、その不親切さが、
視聴者を安全圏から引きずり出す。
「ついて来られるやつだけ来い」という態度が、
あの時代のギャグには確かにあった。
2026年版『ハイスクール!奇面組』が選んだ別の道
令和版が捨てたもの、拾ったもの
2026年版の『奇面組』からは、
あの強引な音圧はほぼ消えている。
代わりにあるのは、
キャラクター同士の関係性がわかる間、
感情の理由が読み取れる抑揚、
「なぜそのボケを言ったのか」が見える演技だ。
これは進化ではない。
笑いの思想の転換だ。
令和版は、突き放さない。
置いていかない。
「わかってから笑っていい」と、視聴者を待つ。
その結果、ギャグの刃はどうなったか
正直に言えば、ギャグのキレは丸くなった。
初代なら、意味不明なまま放り投げられていた一言が、
2026年版では「このキャラらしい行動」として整えられる。
これは安心感でもあるが、
同時に笑いの凶暴性を削ぐ選択でもある。
令和版『奇面組』は、
笑わせる前に、理解させる。
その順番を選んだ時点で、
昭和版とは別のジャンルに足を踏み入れている。
ただし、ここで一つだけ、
意図的に書き落としてきた側面がある。
2026年版『奇面組』が「丁寧」になったことで、
確実に増したものも存在する。
それは、キャラクターの可愛さであり、
学園という空間が持つ、多幸感だ。
初代では、
キャラクターは愛でる対象ではなかった。
笑いのための装置であり、
時にノイズであり、
関係性は破壊される前提だった。
一方、令和版では、
奇面組は「一緒に過ごしていたい集団」として描かれる。
この安心感は、
決して軽視されるべきものではない。
「つまらなくなった」と感じることは、本当に間違いなのか
初代ファンの違和感は、ノスタルジーでは説明できない
2026年版『ハイスクール!奇面組』に対して、
初代ファンが抱く感想の中で、最も多く、そして最も言いにくいのが
「正直、前よりつまらない」という言葉だ。
この感想は、しばしば次のように処理されてしまう。
――思い出補正だ。
――時代が変わっただけだ。
――若い世代にはこれがちょうどいい。
だが私は、この違和感を
単なる感情論や老化現象として片付けるのは、あまりに雑だと思っている。
なぜなら、初代ファンが感じているのは「懐かしさが失われた悲しみ」ではない。
笑いの手触りが変わってしまったことへの戸惑いだからだ。
昭和の『奇面組』が成立していた前提条件
初代『ハイスクール奇面組』の笑いは、
視聴者に優しくなかった。
説明しない。
理由を与えない。
「なんでそうなるのか」は重要ではない。
声が大きい。
テンポが異常に速い。
ツッコミが乱暴で、容赦がない。
これは未熟だったからではない。
視聴者を突き放すことで成立する笑いだったからだ。
ついて来られるかどうかは、視聴者次第。
笑えなくても、作品は待たない。
その冷酷さが、昭和ギャグの快楽だった。
令和版が「丁寧」になったことで起きた断絶
2026年版『奇面組』は、明らかに丁寧だ。
なぜその行動を取ったのか。
なぜその言葉を選んだのか。
キャラクター同士の関係性が、声のトーンや間で説明される。
これは現代的で、親切で、誠実な作りだ。
だが同時に、初代ファンが慣れ親しんだ
「理由のない理不尽さ」は失われた。
昭和版では、
笑いは理解の外側から飛んできた。
令和版では、
笑いは理解の内側で整理されてから提示される。
この差は決定的だ。
そしてここに、「コレジャナイ感」の正体がある。
「優しくなった笑い」が、不快に感じられる理由
一見すると奇妙だが、
初代ファンにとって、笑いが優しくなることは、必ずしも歓迎ではない。
なぜなら、初代『奇面組』の笑いは、
守られるものではなく、
耐えるもの、振り落とされるものだったからだ。
理解されることを前提にした笑いは、
理解できない側を想定していない。
一方、昭和の笑いは、
理解できない人間が出ることを前提に、
それでも構わず突き進んでいた。
この違いは、単なる時代差ではない。
笑いに対する思想の違いだ。
それでも、この違和感は「拒絶」では終わらない
重要なのは、
初代ファンが感じている違和感は、
作品を否定したいから生まれているわけではない、という点だ。
むしろ逆だ。
あれほど乱暴で、不親切だった作品を、
今も同じ強度で愛しているからこそ、
このズレに気づいてしまう。
「つまらなくなった」と感じることは、
記憶の劣化ではない。
感性の鈍化でもない。
それは、
かつての笑いが、どれほど尖っていたかを覚えている証拠だ。
一堂零と冷越豪は、なぜ「別のキャラクター」に聞こえるのか
一堂零|「場を壊す象徴」から「場を調停する中心」へ
初代『ハイスクール奇面組』における一堂零は、
キャラクターというより、現象に近かった。
彼が喋ると、空気が歪む。
文脈が飛ぶ。
話の流れが破壊される。
重要なのは、
彼のボケが「理解されること」を前提にしていなかった点だ。
たとえば初代版では、
零が唐突に意味不明な発言を投げた直後、
ツッコミが被さり、
視聴者が考える前に処理が終わる。
笑いは、理解ではなく、
音圧と速度によって発生していた。
一方、2026年版の一堂零は違う。
彼は「場の中心」ではあるが、
場を壊す存在ではない。
発言の前後には、
相手の反応を受け止める間がある。
無音があり、視線の交換があり、
「なぜ今それを言ったのか」が読み取れる。
これは演技力の問題ではない。
役割そのものが変更されている。
初代の零は、
笑いを強制する装置だった。
2026年版の零は、
笑いを成立させるための調停者だ。
この変化は、
キャラクターの人格ではなく、
作品が選んだ笑いの作り方を反映している。
冷越豪|「ノイズとしての狂気」から「管理された狂気」へ
冷越豪は、初代『奇面組』において、
最も危険な存在だった。
声が大きい。
テンションが異常。
言動に理由がない。
彼は物語の流れを担保しない。
むしろ、流れを破壊するために投入されるノイズだった。
重要なのは、
初代版の冷越豪が「面白いキャラ」ではなく、
処理しきれない異物として配置されていた点だ。
笑いは、
彼を理解できないことそのものから生まれる。
理不尽で、騒がしく、
制御不能であることが価値だった。
対して2026年版の冷越豪は、
狂気を内包しながらも、
物語の枠内に収まっている。
声のテンションは高いが、
他キャラの芝居を潰さない。
間を読む。
ツッコミの到来を待つ。
これは「丸くなった」のではない。
管理されているのだ。
令和版の冷越豪は、
物語を破壊しない範囲で狂う。
だから安心して見られる。
だが同時に、
初代が持っていた
「いつ何をするかわからない怖さ」は、
確実に薄れている。
ここで見逃せないのが、
音響演出の違いだ。
初代『奇面組』では、
ツッコミの音は、ほぼリミッターをかけずに前に出てくる。
声は張り付き、
ピークを潰さず、
文字通り「鼓膜を刺す」設計になっている。
二又一成の潔が放つツッコミは、
感情というより、
物理的な衝撃として処理されていた。
一方、2026年版では、
松岡禎丞のツッコミは、
明確にリミッターの内側に収められている。
音は整理され、
感情は伝わるが、
痛みにはならない。
これは声優の選択ではない。
音響監督が決めた「安全圏」の問題だ。
初代ファンが感じる「物足りなさ」の正体
一堂零と冷越豪の変化を並べると、
ある共通点が浮かび上がる。
それは、
笑いが管理可能な範囲に収められたという点だ。
初代『奇面組』では、
キャラクターが物語を裏切る瞬間があった。
話数構成も、感情の整合性も、
平気で踏み越えてくる。
2026年版では、
その越境は起きない。
すべてが、理解可能なラインで制御されている。
この「安全さ」こそが、
初代ファンにとっての違和感であり、
同時に、新規視聴者にとっての入口でもある。
どちらが正しいのではない。
だが、
笑いのリスクを誰が引き受けるかは、
明確に変わった。
新旧『奇面組』声優・演技思想 比較表
ここまで見てきた変化を、
一度、演技思想という観点から整理してみよう。
| 観点 | 初代(1985年版) | 2026年版 | 評価の分岐点 |
|---|---|---|---|
| 笑いの設計思想 |
理解や共感を要求しない。 視聴者を突き放すことで、思考より先に笑わせる。 |
キャラの関係性や感情の理由を示し、 納得した上で笑わせる構造。 |
笑いを 「暴力」と見るか 「共有」と見るか |
| 声優の役割 |
キャラクターを演じるというより、 場を破壊する存在。 セリフの意味より音圧が優先。 |
キャラクターの感情や立場を整理し、 場を成立させる存在。 意味と文脈が優先。 |
「騒音源」か 「翻訳者」か |
| 演技リズム |
ボケ→即ツッコミ。 間を置かず、被せることで笑いを強制する。 |
ボケ→無音→反応→ツッコミ。 間によって関係性を可視化する。 |
初速の速さか 読解の余地か |
| ツッコミの性質 |
相手を切り捨て、否定し、場を壊す。 冷酷さそのものが笑いになる。 |
相手を理解しつつ制御する。 否定しきらず、関係性を保つ。 |
笑いに 優しさは必要か |
| 視聴者との距離 |
置いていく。 ついて来られる者だけを相手にする。 |
待つ。 理解できる地点まで視聴者を連れていく。 |
排他性か 包摂性か |
| 初代ファンの違和感 |
「理由を求めない笑い」が前提だったため、 ノイズがそのまま快楽だった。 |
笑いに理由が付与されることで、 刃が丸くなったと感じやすい。 |
「コレジャナイ」は 記憶ではなく 笑いの思想差 |
| 作品が選んだ生存戦略 |
テレビの雑音環境の中で、 音圧によって存在を主張する。 |
ノイズを嫌う時代に合わせ、 理解可能な笑いへ変換する。 |
失った鋭さと 得た居場所 |
第1話で見る、昭和と令和のギャグ構造の違い
同じ「導入ギャグ」でも、処理のされ方はまったく違う
初代版・2026年版ともに、第1話の冒頭には、
「奇面組とは何者なのか」を示すための導入ギャグが置かれている。
構図自体は似ている。
奇妙な言動を取る一堂零。
それを受けて周囲がざわつき、ツッコミが入る。
だが、笑いが発生するポイントはまったく異なる。
初代版では、
零の発言が終わりきる前にツッコミが被さる。
カットは短く、間はほぼ存在しない。
「何を言ったのか」を理解する前に、
次の音が流れ込み、処理が完了する。
2026年版では、
零の発言がきちんと完走する。
一拍の無音があり、
周囲の視線や表情が映され、
その後でツッコミが入る。
この違いは小さく見えて、決定的だ。
初代は「考えさせない」構造、
令和版は「考えさせてから笑わせる」構造になっている。
昭和版の編集は「逃げ場を与えない」
初代『ハイスクール奇面組』の編集は、容赦がない。
カメラは長く留まらない。
キャラクターの戸惑いを丁寧に映さない。
笑う準備ができていなくても、
次の音と動きが押し寄せてくる。
この編集は、
視聴者に選択権を与えない。
「笑うかどうか」ではなく、
「ついて来られるかどうか」を突きつける。
だから初代版の第1話は、
安心して見られる作品ではない。
置いていかれる可能性を常に孕んでいる。
だが、この乱暴さこそが、
奇面組という作品を一瞬で記憶に刻み込んだ要因でもあった。
令和版の編集は「理解のための余白」を作る
2026年版の第1話は、
視聴者を置いていかない。
編集は一拍待ち、
キャラクターの反応を拾い、
「今、何が起きたのか」を整理する時間を与える。
これは、
キャラクター同士の関係性を描くためには、
極めて有効な手法だ。
視聴者は、
奇面組が「変な集団」であるだけでなく、
「どういう距離感で一緒にいるのか」を理解できる。
その代わり、
笑いの初速は確実に遅くなる。
驚きは、
安心と引き換えに制御される。
「間」が変わると、ギャグは別物になる
初代版の「間」は、
笑わせるために存在しない。
笑わせないために存在しない。
間がないことで、
視聴者は考える暇を奪われ、
結果として、
音と勢いに身体を預けるしかなくなる。
一方、2026年版の「間」は、
意図的に設計されている。
この一拍で、
視聴者は理解し、
「なるほど」と納得し、
そのうえで笑う。
ここに、
昭和と令和のギャグ観の違いが、
最も端的に現れている。
第1話が示しているのは「どんな視聴者を想定しているか」だ
初代『ハイスクール奇面組』の第1話は、
視聴者を試す。
この速度について来られるか。
この理不尽を楽しめるか。
それができないなら、容赦なく振り落とす。
2026年版の第1話は、
視聴者を迎え入れる。
奇面組は変だ。
でも怖くない。
ちゃんと理解できる。
だから安心して笑っていい。
どちらが優れているかではない。
想定している視聴者像が、まったく違う。
そしてこの違いは、
以降の全話を貫く、
作品の姿勢そのものを決定づけている。
結論|令和の『奇面組』は、何を笑わせようとしているのか
それは「安心して笑える関係性」だ
昭和の『奇面組』は、
「考えるな、笑え」と言っていた。
令和の『奇面組』は、
「わかってから、笑っていい」と言っている。
どちらが正しい、ではない。
だが確実に、狙っている笑いは違う。
2026年版は、
笑いを暴力にしない。
誰も置いていかない。
その代わり、刃は鈍くなった。
それでも、この選択を「間違い」と断じきれない理由
私たちが愛した、
あの理不尽で、
容赦なく振り落とす笑いは、
もしかすると、もう絶滅危惧種なのかもしれない。
だが同時に、
この「丁寧な奇面組」が、
10年後の誰かにとっての、
原体験の音圧になる可能性を、
私はまだ捨てきれずにいる。
笑いの形は変わる。
だが、
記憶に残る声が生まれる場所は、
いつの時代にも、必ず必要だ。
よくある質問(FAQ)
Q. 監督が意図的に「丸く」した可能性はありますか?
十分に考えられます。
現在のアニメ制作環境では、
過度な音圧や理不尽なテンポは、
炎上や切り抜きで誤解されやすい。
2026年版『奇面組』は、
そのリスクを理解した上で、
「誤解されない笑い」を選んだ可能性があります。
Q. 今後、2クール目以降で評価が変わる可能性は?
あります。
もし今後、
キャラクター同士の関係性が十分に蓄積された上で、
再びテンポや音圧が上がるなら、
令和版ならではの“第二段階の奇面組”が
立ち上がる余地は残されています。
情報ソース・執筆方針について
-
『ハイスクール奇面組』公式サイト
作品概要、2026年版リメイク情報、スタッフ・キャスト表記の確認。
https://kimengumi.com/
※本記事は、公式情報を基礎資料としつつ、
筆者自身の視聴体験をもとに、
声優演技・音響演出・構成テンポの違いを分析した批評記事です。
特定の声優・制作スタッフを評価・批判することを目的としたものではなく、
時代ごとに変化する「笑いの設計思想」を読み解く試みとして執筆しています。
執筆・構成:桐島 灯(きりしま・あかり)|アニメ文化ジャーナリスト・ストーリーテラー
公開方針:「作品を“理解する”ではなく、“感じる”評論」をテーマに、感情と物語を橋渡しする批評記事として執筆しています。
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